深呼吸する言葉

言葉の力

白日日記

metakit2006-07-10

■7月24日に、久しぶりにパーティを開く。僕らが宴会好きということもあるが、それ以上に、僕らの周辺の連中が、夏と冬が近づくと「今度の宴会いつですか、予定をたてたいので早く決めてください」と圧力かけてくるのだ(笑)。デメ研の宴会は、実にまあ、いろんな領域からいろんな人がやってくる。圧力かけてくる人は、これが狙いなんだろう。まぁ、お楽しみください。詳細はこちら


■僕が最初に出版パーティをやったのは、「企画書」(当時、JICC出版局、現在の宝島)。1981年だった。こういうのは最初、乗り気ではなかったが、友人の常行さんと清水さんとが幹事やるからと煽られてやってしまった。常さんは、当時、文化放送の営業にいたが、その後、J−Waveの立ち上げに参加し、京都や、名古屋のFM放送局の立ち上げを指揮したりして、音楽放送局の立ち上げでは有名な人になった。清水さんは、当時、放送批評懇談会の事務局員で、彼のおかげで、それまで知らない世界だった、放送関係の人たちとの知遇を得て、民放連の賞の審査員やったりした。書籍を出すのは初めての無名な雑誌屋に、たくさんの人が集まってくれた。本の推薦文は、林雄二郎さん(当時、トヨタ財団専務理事、現在、フィランソロピー協会会長)渋谷陽一、高山英男さん(子ども調査研究所 所長)だ。当時も今も、僕のかけがえのない同志だ


■「企画書」の出版パーティは、明治神宮の中にあるテニスコートに隣接したレストランだった。僕は参加者のプロフィールを写植でうち、参加メンバーのリストを作って、参加者に配った。この方式は、僕のその後のパーティのフォーマットとして定着した。集まった人同士をつなげようという僕の目論見だった。100人くらいは集まっただろうか。今、思ってもそうそうたるメンバーで、出版界、放送界、ITベンチャー界、読者たちと、多様な顔ぶれだった。ITベンチャー界がいるのは、当時、第一次ベンチャーブームというのがあって、コンピュータ・ビジネスが始まったばかり頃だった。「ベンチャークラブ」というのがあって、僕の本を読んだ、ベンチャークラブの中心人物だった前田さん(当時、カツマタゼステック)が講演に呼んでくれて、それ以来の付き合いになった。ポンプの読者たちが、何人もベンチャークラブに参加した。


■来賓挨拶は、なかなか味のあるスピーチばかりだった。僕のことを学生時代から見てきている高山英男さんは、「みなさん、橘川くんは、面白いアイデアをどんどん出す人だけど、一方的に利用してやろうとだけは思わないでください」というような、実に泣けるスピーチをしてくれた。「さらば国分寺のおばば」で作家としてデビューしたばかりの椎名誠さんがスピーチしてくれて「橘川くんの処女作は企画書ですが、ぜひ、この次の本は見積書、その次は、請求書にしてもらいたいと思います」と、場内爆笑させてもらった。笑った友人たちは、僕が企画書しか書けなくて請求書に辿り着かないことを知っていたからだろう。


■小谷正一さんという、戦後日本のマスコミのフレームを作った人がいて、僕は彼に呼ばれて「参加型メディアがこれからのメディアだからガンバレ」と激励されていた。当時はTBSの前に「デスクK」はあった。放送批評懇談会も、彼が作ったものだ。出版パーティの案内書を郵送すると、返事がきて「残念だけど海外出張の日なので参加出来ない」と丁寧な返事が来たが、驚いたことに、現金書留で参加費5000円が送られてきた。はじめて本を出したにすぎない若造に、ここまで丁寧な対応をしてくれた人を僕は知らない。僕は小谷正一に人間関係のこまやかさを教えてもらった。